2025年5月3日更新(2025年5月11日ページ移動)
■5月3日(土:祝日) この勝負、現時点は猪の勝ち!! ──ほぼ毎日、同一の個体が実家の裏山に出現中──
後半でご紹介する事情によりセンセイはここ数日、自動車で毎日実家へ。
写真は昨日、実家裏の竹林に入った際に撮影したもの(拡大写真(別ウィンドウ、1280×960))。この日の目的の一つが筍掘りだったため裏山に登ったのですが、ご覧のように筍の皮が散乱している場所が。
乱雑さから既にお察しと思いますが、これは人間ではなく猪の所行(しょぎょう)。ある程度生長して、手がない猪でも食べられるようになった筍を食した跡です。撮影テクニックの問題もあり、ちょっとわかりにくいと思いますが、良く見ると写真中央に直径20cmくらいの穴が。猪の穴です。
これが所有地内に2カ所。少なくとも筍が出始めた最近、猪がしばしばここを訪れていることを示しています。お伝えしたように先日、猪の「トイレ」を撤去して、その場所を使えないようにしました。現場を再訪すると、おぉ、そのすぐ脇に新たな○が...。
「しばしば」どころか、猪はほぼ毎日やって来るのです。
さすがに住処にしているわけではないようですが、ここはすっかり彼/彼女のテリトリーの一部らしい。というわけで猪とセンセイの勝負(?)、少なくとも現時点では猪の完勝。
ま、予想通りでしたが。見方を変えると、出入りするのは同一の個体(+α)と推測されます。竹林を整備(一昨年/昨年)すれば「来なくなる」と言われていたのですが、甘かった...。
センセイ、つまり人間側にも反省点が。去年、一昨年はこの時季、割とマメに実家を訪れて竹林を整備したのです。ただし今年は天気が悪い──風が強いと自転車を利用できない──ことが多く、しかも金沢工大と前任校での講義が。
去年までは金沢工大だけだったのです。それでも今日、いろいろ大変だった親族の大イベントが無事に終了。ゴールデンウィーク後半初日、親族総勢24名が実家に集合したのです。
子供5名を含むので、運営側つまりセンセイはホントに大変。冗談抜きで、1回フラフラしたほど。(たぶん誰にもバレていない)
それはともかく、これで連休最大のイベントを乗り切ることができました。天気との関係もありますが、明日以降は改めて竹林の整備に取り組むつもり。当地は今日の夕方、雨が降りました。
つまり「雨後の筍」掘りも兼ねています。この機会に、昨日ご紹介した血圧のその後を。
昨晩は割とゆっくり眠ることができたためか、今朝の「平均」──「収縮期血圧」の3回移動平均の最低──血圧は、久しぶりに117mmHg。「下」(弛緩期血圧)の「平均」も64mmHg。ベストではありませんが、ここ数週間の中ではベター。
ところが大イベントを仕切終え、帰宅直後に測定した「平均」は、152mmHg。正常値の範囲を軽々とクリア(!!)しています。トホホ。
でもここ数日は今日のイベントのために働いていたようなもの。「傷だらけの勲章」というわけですから、ま、仕方ない。
問題は、今後。
血圧変動の件については突出した今夕のデータを含めて後日、正直にご報告させていただくつもりです。
■5月2日(金) 不都合な真実 ──新学期になったら、クラスの優等生が問題児に豹変(?)──
もちろんこれだけでは何のことかわかりません。つまり悪いタイトルの見本。
何度もお伝えしているように、センセイは毎日欠かさず血圧を測定しています。後述するように、特別な日を除けばこのところ非常に良好な状態を保っていたのです。過去のセンセイ自身を含めて、高血圧(およびその予備軍)に悩まされている人は多い。
センセイの場合はどうやら、自身の不摂生──主に塩分過多と運動不足──によるものらしいということが判明。深く反省した西村センセイ、数年前に「キンエン生活」に入ることを決意しました。正直なところかなり大変だったのですが頑張った甲斐あって、その後はいわば「クラスの優等生」に。決して誤解していただきたくないのですがこれはあくまで、センセイの場合。
高血圧に苦しんでいる方の中には不摂生が原因でない方も多くいらっしゃいます。そのような方には申し訳ない部分がありますが、とにかく当面の問題はほぼ解消できたと考えていたのです。
過去7年間のデータがこちら(拡大写真(別ウィンドウ、1280×915))ですが、退職後は血圧が一段と低下しています。ただしグラフから明らかなように、明らかに連続して血圧が上昇している場面も。これは主に、ストレスによるもの。
センセイの場合、もともと不摂生とストレスが高血圧の二大要因だったようなのです。グラフを見ると、金沢工大大学院(一昨年度)での講義および前任校の集中講義(昨年度夏期)などの時期が高い。特に昨年度から金沢工大と昨年度冬期の前任校は際立っています。前者は前年の電車と異なり、自動車での移動。
後者については、いろいろな意味で厳しい条件下で集中講義を実施したためでしょう。
なお、一昨年冬に心不全のため34歳の若さで甥が頓死した時のデータは突出しています。でも、これは仕方ない。確かに困った事態ではあるものの個人的には、以上の原因について得心(とくしん)できます。
変動はありつつも、この傾向はごく最近まで継続。例えば右の写真は先月上旬(4月6日)に撮影した日中のデータ。「平均」──「収縮期血圧」の3回移動平均の最低──は101mmHg。この日の個別記録の最低は97mmHgでした。
今年に入ってから「平均」100mmHg以下の日も数日。ところが4月中旬から状況が一変。お察しの通り、直接のきっかけは金沢工大大学院および前任校での初回講義です。お伝えしたように、講義は初回で勝負が決まります。
教える側のプレッシャーは相当なもの。でも基本的には多少のタイムラグはあるものの、講義を終えてホームグラウンドへ戻れば血圧はそれなりに落ち着くのです。ところが今回、特に2回目の講義以降は血圧が下がらない。
ホントに下がらない。ナシテ?!
全期間データではわかりにくい部分があるので、昨年4月からのデータを切り出したのが2枚目のグラフ。(拡大写真(別ウィンドウ、1280×925)。横軸だけでなく縦軸も目盛りが異なる)
縮小したため右のグラフでは一部変色していますが、赤い横軸は正常値の上限。赤色でマークした右端で、「最高」(「収縮期血圧」)「最低」(「弛緩期血圧」)ともに急上昇。
特に毎回の測定開始時は酷くて、「最高」150mmHg台などという値が当たり前のように表示されます。体感から、決して血圧計のトラブルではないことも確実。
塩分摂取量など生活習慣はほとんど変えておらず、そんなにストレスもないのに、ナシテ?!敢えて思い当たる節を挙げれば、一つはアルコール関係。この時期、節約のために晩酌の一部をビールからチューハイに変更してみたのです。センセイは年金生活者なので。
ただし摂取アルコール量そのものは不変。もう一つは、時節柄夜明けが早くなったためか、明け方に目が覚めてしまうこと。ただし朝のデータへの影響はわからなくなくない。でも日中の血圧も朝と同様に高いままなので、その説明としては不十分。
だから正直なところ、ホントに原因は不明。まるで優等生が一晩にして問題児に豹変したかのよう。しかも困ったことに、当の本人にも原因がわからない。
残念ながらこれは、不都合な真実。
しばらく様子を見るしかなさそうですが、あまりにも急激かつ継続する変化。これがが継続するようなら、同級生のクリニックで診てもらおうと考えています。
■5月1日(木) 「ニュートンのりんごの木」に咲いた不揃いの花の下、学生諸君は自らの学びへ向かう
昨日に引き続き、見たままのお話。
今日は木曜日。つまり前任校での講義の日。今年のゴールデンウィーク、曜日まわりの関係で金沢工大大学院は2回連続のお休みとなりましたが前任校は毎週連続。受講生諸君についてはわかりませんが、講義をする側としてはその方がありがたい。
リズムが崩れないので。風雨が強い日や後期の雪の時季については何とも言えませんが、今日は快晴かつ気温が28℃近くまで上昇するとのことだったので、迷わず電車でご出勤。そもそも夜が短いので、早めに目が覚めるし。
5時過ぎに起床して駅へ急ぎます。でも決してセンセイだけが活動しているわけではありません。少なくない方が犬の散歩やジョギング中。背広姿で自転車に乗り、駅を目指す人も。問題なく快速列車に乗車し、長岡駅で乗り換えます。
ここから先は最寄り駅まで直通。
新潟駅を数駅過ぎたところで見覚えのある女子学生が乗車してきました。さてどこで...と思ったのですが、考える必要はありません。センセイの科目の受講生なので。
最寄り駅前には学バスが待機。(非常勤?)教員1名を含めて15名くらいが乗車。列車の運行に合わせた便なので、必ずしも登校に便利な時間というわけではありません。それを考えると、利用者は意外に多い。
キャンパスに入ると、センセイの意識はロータリー(2枚目の写真)に集中。もちろん、その中心に植えられた「ニュートンのりんごの木」です。金沢工大の樹が先週咲き始めたので、少し寒い場所にある前任校も「今週には...」と考えたのです。
個体差は大きかったのですが期待通り、たくさんのりんごの花が。でも今は仕事最優先。準備をひとまず終えてから撮影したのが1枚目(拡大写真(別ウィンドウ、1280×960))。写真(北向き)の位置だと澄んだ青空をバックに撮影できるのですが、それだけだと寂しくなってしまいます。
そこで事務棟を背景に撮影。ちなみに、奥に見えているのは学長室です。
東方向(2枚目の写真)の構図を考えていたら、背後から学バスの接近音が。センセイが乗車してきたのは大型バスですが、こちらはマイクロバス。
大学が立地する新発田(しばた)市中心部から通学する学生のためのバスです。もちろん邪魔をする気はないので控えていると、降車した学生が挨拶してきました。彼にとってセンセイは間違いなく見知らぬ存在なのに。
こういうところも前任校の良さ。せっかくなので、感謝の気持ちを込めて撮影したのが2枚目。1枚目および冬季の様子でもおわかりかと思いますが、かなりワイルドに剪定(せんてい)されています。(拡大写真(別ウィンドウ、1280×960))
教室に戻り、講義開始。「お試し期間」かつ新学期開始直後の異様な高揚感が漂う初回および2回目と違って講義3回目は、いかにも「大学の講義」。お互いに様子がわかってきたことも影響しているはず。
もちろんいろいろ感じたのですが、それでもやはり、前任校での「学び」には評価すべき点が。ただし金山学長以下の関係者には大変申し訳ないのですが、どちらかというと大学より、受講生の「学びたい」という気持ちの方が大きいと思う。
だからやっぱり、センセイは頑張っちゃうのです。
■4月30日(水) 今年も猪との闘いの季節が始まった... ──乱調気味ながらも、筍が出始めました──
得るものが多かった新潟市ツアー、別な観点からお伝えしたいことがまだ残っているのですが、それは後日。
今日は季節の話題を。何のことはなく、実家裏の竹林で筍が出始めたのです。同時にこれは、筍をめぐる猪との闘い(こちらやこちら)が始まったことを意味します。何度もお伝えしているように、この冬は厳しかった。
場所によっては、平年を大幅に上回る積雪、実は連休明けに磐越西線と只見線を乗り継ぐ計画を立てていたのですが最近、断念。豪雪のため只見線は運休中なのです。除雪は終えているのですが、線路脇の雪が雪崩になって崩れてくる可能性があるため。
運転開始は5月中旬の見込みとのこと。今季の積雪量は地域差が大きく、当地は例年の約70%に留まります。されど冬季および早春の気温が低かったため、植物の生長は去年より遅れ気味。良く考えると客観的には今年が平均に近く、昨年および一昨年が早過ぎたのかも。
当地はこのところ、寒い日が続いています。だから正直なところ、先週まで筍が出る囲気ではなかったのです。先週後半、日当たりが良い場所に生えているものを母親が発見。金曜日に彼女を送り迎えした際、ざっと確認したのですが、まだ筍の気配はなし。
ところが月曜日に新潟から戻ったところ、筍が届いていました。前日つまり日曜日に実家を訪れた弟が筍を見つけて数本掘ったそうで、そのお裾分けとのこと。弟から「小さいものを穫らずに、2本残しておいた」との伝言が。所用で昨日実家を訪れた際、着替えて裏の竹林に入ってみました。
もちろん弟が残した筍を確認。その他に2本、合計4本の筍を確認しました。ただし小さかったのでそのまま残しました。と同時に、見たくないものも。去年確認した猪の「トイレ」が、同じ場所で規模を拡大させた状態で存続していたのです。
猪は基本的に臆病で、人の気配を嫌います。
しかも意外にきれい好きらしい。彼/彼女にとって、ここは安心できる場所のはず。どうやら去年からの個体がこの近辺に定住しているようです。
でもこの事態、人間側としては困る。糞を除去し、猪が簡単には立ち入れないように、竹その他でバリアを作ります。猪は四つ足で、「手」を持たないので。でも白状すると、どの程度効果があるのかは不明。
その上で改めて、所有地内を確認します。あちらこちらで予想以上に筍が顔を出しており、総数10本以上を確認しました。写真はその中で最も立派だった筍。(拡大写真(別ウィンドウ、1280×960))
まだ小さい──望遠レンズで撮影しており、地上高は6cm程度──のですが、実はこれくらいが一番美味しい。大きく生長した筍は硬く、味も薄くなります。これくらいの筍を、できるだけ地下の深いところから掘るのがポイント。「唐鍬(とうが/とうぐわ)」(2枚目の写真)を使い、頑張って収穫しました。
ただし今日は、弟がそうしたように大半を掘らずに残しました。小さすぎるものが多かったため、生長を待ったのです。同時に感じたことが。今年は細い竹が多く、しかもばらつきが大きい。いつもなら文字通り「雨後の筍」状態なのに。そもそも今年は不作の「裏年」。
筍がこんなに生えてくるとは思っていませんでした。
それを考えれば、恵まれた状況なのかも。
筍掘り(+猪との闘い)は、これから約2週間続きます。
■4月29日(火:祝日) こちらはどっこい、生きている ──プチ大学同級会が開かれました(後編)──
昨日の続き。
場所的には古町から本町、そして一昨日お伝えした萬代橋までの地区。
時間的には学部後半と前任校に赴任すべく新潟に戻ってからのそれぞれ数年間、頻繁に出入りした地域です。ご存じの方も多いと思いますがセンセイは学部の後半、アルバイトで生活費を捻出(ねんしゅつ)していました。
具体的には白山浦(後に五十嵐地区へ転居)のアパートから、昼は五十嵐キャンパスへ真面目に通学。夕方からは西堀通り6にあったお店でほぼ毎晩、主にコックとして勤務。一定年齢以上の新潟市民なら、中華料理「東華楼」という名を耳にしたことがあるはず。ラーメンや餃子を一般庶民に広めたお店です。
現在の「三宝チェーン」のようなイメージ。(新潟ローカルな表現ですみません)当時は新潟市内に10店舗くらい展開していたはず。その後「西堀ローサ」開発に伴いビルが建設されたのですが、その中に東華楼グループとしては唯一、夜だけ営業するお店が。その「東華楼」創業の地なのです。
たぶん地権者の一人なのでしょう。
当時の従業員は中卒が普通。そこに大卒かつ現役大学生が紛れ込んだわけです。斜向かいの西堀通り4番町にあった「東華楼」本店──現在はマンションに──裏には本部が。
そこへ出入りするうちに目を付けられ、専務から真面目に「就職しないか」と誘われたことが。(実話)専務は「組織で最も大切なものは何か」と訪ねてきたのです。一瞬考えた後、「人間(人材)ですか...」と口にしたその瞬間、返答を遮るかのように「違う。カネだ」。(キッパリ)
当時はバブル経済絶頂寸前。「東華楼」は手にした潤沢な資金──主に銀行からの借入──を元手に、ホテル経営などへ手を広げます。その結果についてはお察しの通り、経営破綻。
就職せず良かった...と書くと、まず間違いなくセンセイの真意は伝わらないはず。センセイが「東華楼」で学ばせていただいたことは本当に多い。とりわけ大事だったのが「何を選択し、何を諦めるか」ということ。センセイはその後、学業へ戻ります。
もちろん「東華楼」に就職していたら、別な意味で大変なことになっていたはずですが。「西堀ローサ」は本年3月末で営業終了。時間および経路の関係でビルもチラッと見ただけ。
お伝えした「名画座ライフ」の後は、古町通りから鍋茶屋通り──有名な料亭の名に由来──を下りました。この辺りは高めの飲み屋街なのですが、知っているお店はほとんどなくなっていました。
その先にあるのが1枚目の「佐藤菓子店」。高齢のご夫婦による手作りの甘納豆が有名なお店です。(こちらやこちら)
本当はその先もあるのですが、この日はここでUターン。本町通りを歩き、幹線道路(国道116号線)に出たところで撮影したのが2枚目の写真。
奥へ延びる開閉式の屋根の下は「新潟の台所」こと、「本町通り」。でもその前に、「日本一 国道が集まる 交差点」の旗が。その両脇には数字入りの「(上下逆になった)おにぎり」が。お察しの通り、これは国道の番号。
ここは「新潟市本町交差点」。(こちら、こちらやこちら)よぉーく見ると「日本一」の「一」の下部が少しぼんやりしているような...。「(高知市県庁前交差点と並ぶ)」と小さく記されているためです。ここには実に、8本もの国道の始点および終点が集まっているのです。
ちなみに、通ってきた場所の地面には「新潟市道路元標」も。
その「本町通り」はお察しの通り、金沢の「近江町市場」に相当する存在。でもこちらは本当に庶民的──もちろん近江町市場にもその側面がある──で、金沢のような妙なプライドはありません。
ここを訪れると本当に、ごく普通の新潟市民の感覚を確認することができます。本町については何も調べずに訪れたのですが、この日は自動車進入禁止──以前から日中はそうだったと思う──にして歩行者天国に。後から調べるとふだんから「本町マルシェ」を開いているらしい。
特にこの日はたまたま日曜日。「ほんちょう日曜マルシェ」の開催日だったようで、いろいろなお店が出るとともに奥では小さなステージが。センセイが通った時はハワイアンの演奏中でした。
左に旧「イトーヨーカドー丸大」(本年1月26日閉店)のシャッターを見ながら進むと、開けた場所へ。ここは「人情横丁」。本町通りを中心に、東堀通りから上大川前通(写真左奥)までの新津屋小路まで写真のようなお店が連なっています。
個人的にはここが最も、本町通りの雰囲気を表していると思う。
実はここでも教えられたことが。もうちょっと先のビルの一角に当時、「東華楼」の材料加工センターがあったのです。今なら大半を機械で処理するのでしょうが、当時は人手。
オバちゃんから、大きなキャベツ玉のさばき方を教えていただきました。おかげで現役時代は、業務用の重い「ヤッパ」──包丁のこと──を使って、手元を見ずに(!!)キャベツの千切りをしていました。形と断面は当時の機械より綺麗。
さすがに今は腕が鈍りましたが。3枚目の写真奥に見える東北電力新潟支店ビルを見ながら、本町通りの東側にある上大川前通を北上します。本町通りとの間にあるのが写真の旧「イトーヨーカドー丸大」ビル。
かつては大和に迫るほどの勢いを保っていた「丸大」。経営環境の激変で金沢、高岡、富山そして柏崎と撤退が相次ぎ、ついには新潟も閉店。ただし今回初めて知った──事前の調査不足を恥じ入るだけ──のですが、一部テナントは現在も営業しているらしい。
スーパーについては別なグループの下で、夏に食品スーパーを開店させることになっているそうです。閉まったシャッターの前を通り過ぎようとして、建物最上部の看板に気づきました。何と、「丸大」のマークが綺麗に残されていたのです。消す手間あるいは作業時間の問題かも...と思ったのです。
でも隣接する面に描かれていた「イトーヨーカドー」のマークは、見事に消去済。つまりこのまま新規開店を迎えるらしい。
一昨日からお伝えしてきたセンセイの新潟中心部ツアー、個人的には15年分くらいの人生を濃密に振り返る機会になりました。正直なところ、苦い経験の方がずっと多い。されどこれを過去に向けたままにするのか。
それとも一昨日の飲み会で教えられたように、ベクトルを(残り少ない)未来に向けるのか。問われているのはセンセイ自身、というわけです。
■4月28日(月) “For the Rest of Us” ──プチ大学同級会が開かれました(消えたお店編)──
昨晩は実に楽しい時間を過ごして、今日のお昼に自宅へ戻りました。プチ同級会については最後に。
このページは現在、センセイが日常生活の中で見聞きしたことを中心にお伝えしています。だから当然、少なくとも表面的にはプライベートな話題ばかり。ただしまったく私的なことについてはご紹介していないつもりです。
一個人の私的な経験を通して、その背後に存在する社会的なことがらや普遍的な問題についてご一緒に考えることができれば、と願っているからです。もちろん、公私の別については一種の線引き問題(demarcation problem)。人によって意見が異なる場合があるでしょうけど。いろいろ考えたのですが今回の新潟ツアーについても、この基本方針を堅持。
皆様のお役に立つ可能性があるお店や施設について、いくつかご紹介することにしました。今回は主に、最初の学部生だった1970年代後半から1980年頃に関係した場所。センセイは当時、新潟市白山浦の安アパート(途中で同地区内で転居)から、旭町地区にあった新潟大学教育学部へ通っていました。
晩は自炊。朝については覚えていません。もしかすると抜いていたのかもしれません。問題は、お昼。大学が小さかったからか、あるいは市街地にあったためなのか学食はありません。そもそも貧乏学生だったので特別な場合以外は、外食不可。
もっとも当時は医・歯学部生以外は皆、そうだったのです。
また当時の教育学部は男子学生より女子学生の方が3倍くらい多い。彼女たちの大半は、自分でお弁当を作って持参していたんじゃないかと思います。記憶はありませんが...。
で、センセイはというと朝、たいていちょっと遠回り。大学とは反対の新潟商業高校の通り──拡幅されていた──に出て、「白山市場」方向へ。今と違い、当時は完全な露店。農家の方が早朝から収穫した新鮮な野菜を軽トラで運び込んでいました。
ただしさすがに20歳前の男子学生にはご縁がない。センセイが向かったのはその先にある、「糸きん」というパン屋さん(左側の建物)。これがもう本当に美味しくて、当時も人気店でした。従業員も多かったことを覚えています。
実は数年前にもここを通っているのですが、すでにその時からおにぎりのお店に。50年近く経過していますから当然、世代が替わったんだろうと思います。経営環境も一変していますし。ところで上記基本方針からすると、ここまではどうでもいい私的な内容。
ポイントは「糸きん」右側、現在は駐車場として用いられている場所です。
ここには数軒の建物があり、その一つが活版印刷所だったのです。授業は9時からだったと思うので、ここを通過するのは8時30分前後。
そんな時間から多くの職人さんがピンセット(?)を使って、裏文字の活字を実に手際よくピックアップ。知識としては知っていても活版印刷の現場を見るのは初めてだったので、非常に強い印象を受けました。今でもその様子と職人さんの見事な動きが目に焼き付いています。
それぞれのアパート(跡)の様子を確かめてから、旧県庁方向へ移動。途中で進路を微妙に変え、鏡淵小学校──実は初代白山駅跡──脇と、お世話になった旧「関本特殊無線」(現「フォーミュージック(有)」)前を通ります。
かつては向かいに同店の部品部があったのですが、現在は店舗2階に。市内唯一の電子部品店です。そのちょっと先にあるのが、公衆浴場「有馬湯」。この頃は、アパートに個別バストイレを備えていないのが普通。そもそも一般住宅の部屋を間借りする人が多かったし。
当然、お風呂は公衆浴場。
センセイは主に、学校町にあったお風呂(閉店)に通っていたのですが、時々この「有馬湯」へ。でもどう見ても、営業している雰囲気ではありません。
帰宅後に調べてみたところ、2年前から「長期休業」とのこと。事実上の閉店ですねぇ。続いてセンセイはお伝えしたように古町へ。実はここにも公衆浴場があったのです。しかも番台に座っていらっしゃる女性は、おぉ、大学の事務の方(実話)。ここがご自宅だったようです。
当然、兼業届を出しているはずなので、手続的な問題はありません。長くなりました。続き、つまりほぼ2回目の学部学生時代と関係する場所は明日にまわすとして、もう1ヶ所だけ古町(古町7)をご紹介。現在はフェンスで覆われています。
ここには有名な名画座「ライフ」がありました。個人的には「戦メリ」を初めて、そして名画「天井桟敷の人々」(“Les enfants du Paradis”)や「旅芸人の記録」(“O Qiasos”(末尾の“s”は本来、別な文字))をここで観ています。
「小さな恋のメロディ」(“Melody”)をここでリバイバル上映した時は、立ち観が出たほど。残念ながら「ライフ」は、センセイのICU進学と合わせるかのように1985年3月閉店。この他にもあちこちでお世話になったあるいは思い出深いお店が閉店していました。されど個々のお店は替わりつつも、厳しい条件の中でしっかりと生き延びている地域も。
こちらについては、明日(以降に)。で、昨日のプチ同級会。
7名参加とのことだったのですが、ご母堂が逝去された方がいた──お悔やみ申し上げます──ため、6名での開催。お互い、顔がわかるかなぁと心配したのですが、実際に会ってみれば40年のブランクなんてどこへやら。
ただしセンセイを含めて皆さん、おじいちゃん、おばあちゃんに。(孫がいる/いないの意味ではない)60歳を過ぎているので会社の重役になったり、国あるいは自治体で専門性のある仕事をした後に退職。現在は再雇用や知識を生かして民間で働いていたり。
ところで事前に伝えられていた会費は4,000円(!!)と、どう考えても学生の感覚。皆が別料金のビールを頼んだため、実際の支払い額は5,000円ちょっとでしたが。それより驚かされたのが、会のノリ。
始まってしまえばほぼ完全に学生時代へワープ。「あの時、彼氏と彼女が...」などと知らないことばかり。まぁ、センセイは飲食店で毎晩アルバイトをして不在だったからなのですが。ただし決して見逃すことができない点が。当時の話で盛り上がったことは事実。
ただし決して、「あの頃は良かった...」などという意味ではありません。もちろん公私ともにいろいろ大変だろうなぁと感じたのですが、皆、しっかりと現在を生きています。しかも、時間的にも意味的にも前向きに。
凄いなぁーと思ったのですが、良く考えてみるとこれは今回集まることができたメンバーによる面が大きいのかも。話の中で、入学式で新入生代表として抱負を述べた同級生の訃報に接しました。どうやらガンだったらしい。
この他にも、いろいろな理由で思い通りにならなかった方が多数いらっしゃるはず。前述したように今回は入学時から優秀で、卒業後もそれぞれの分野で活躍中/された方々。あちこちをフラフラしたセンセイなんて、ほぼ劣等生。まぁ、別に競争しているわけではないので、いいんですけど。
ポイントは、旧Mac OSが目指した、“For the Rest of Us”。つくづく優秀な発想だったんだなぁ...と、改めて思い知らされます。
■4月27日(日) 久しぶりの新潟で変わらないのは小川屋と萬松堂、そして萬代橋くらいのものだった...
1週間ほど前、携帯電話に着信が。
センセイは携帯電話をほとんど使わないので珍しい。他方、高齢の両親その他に緊急事態が起きた可能性もあります。慌てて発信元を確かめると、おぉ、大学時代の同級生。ご存じの方も多いと思いますが、センセイは学部を二つ卒業しています。
今回の相手は、2回目の方。ただし応答できる状態ではなかったので、後からメールを送信しました。やり取りで判明したのは、現在62歳前後の同級生の一部が新潟に集まることになりそうとのこと。ありがたいことに、そのお誘いです。
というわけでセンセイは午前中の電車に乗って新潟市へ。
当然ですが、「集まる」は「宴会を開く」と同義ですから、開始は夕刻。それまでに到着すれば良いのです。ただしこの機会に、新潟市中心部その他を歩いてみることにしました。
先月も新潟市を訪れていますが、その時は新潟駅前だけだったので。センセイは浪人〜学部時代の9年間と、前任校に着任するため県内に戻ってからの5年4カ月、計14年4カ月を新潟市内で過ごしています。
住んでいたのは小針→白山浦→五十嵐→西小針台と、市中心部から西側。そこで今回は学部学生時代の場所を中心たどるため、大きく変わった白山駅で下車して昔のアパートの様子を確かめ、旧県庁(現新潟市役所)から古町へ。
上古町から古町10番町まで歩き、その後は本町へ。当然のことですが、地形はあまり変化しない──ただし道路の付け替えや拡幅工事があった──ものの、建物やお店はどんどん変わっていました。
感覚的には、昔と同じだったのは漬け魚で有名な「新潟小川屋」と「萬松堂」書店だけという感じ。新潟に戻ってからもこの辺をよく行き来したのですが、それから25年近くが経過しています。だから当たり前のことなのです。ホテルに荷を置く必要もあるので、新潟駅を目指します。写真は途中にある萬代橋。(拡大写真(別ウィンドウ、1280×960))
この橋にもいろいろな思い出があります。この続きがあるかどうかはわかりません。まったく個人的な内容なので。
それはともかく、(一部を除き)40年ぶりに再会する彼ら彼女ら(+センセイ)は、さて、どんな顔をしているのだろう。
オトナになると、「顔」は自分で創るものなので。