2025年4月19日更新(2025年4月27日ページ移動)
■4月19日(土) 兵どもが夢の跡 ──西村センセイ、半世紀ぶりに上越線石打駅に降り立つ(1)──
昨日、今日と、全国的に気温が上昇。
当地も例外ではなく、昨日は夏日に。朝晩は割と涼しいのですが、日中は薄いコートを羽織っているだけで汗が出てきます。今日はシャツを薄いものに換え、コートなしで外出。
それでも歩いていると、全身にじんわりと汗を覚えます。ただし今日と明日は季節を逆戻りさせて、まだ雪の残る場所のお話を(既に乗り遅れ気味なので)。具体的には、この日曜日に企画乗車券を使って訪れた上越線石打駅の様子です。
良く知られている越後湯沢駅の、北隣の駅。順次ご説明しますが西村センセイ、高校時代はクラスあるいはグループでこの石打駅を何度も利用していたため、良く覚えている駅なのです。
ただしその後は列車で通過するだけ。金沢工大時代、特に北陸新幹線開業前は都内出張で年に20〜30回くらい通っていましたが、その後は激減。退職後は年に数回程度に再増加しています。
出張帰りに特急「はくたか」乗車するのはたいてい夜中になるので無理ですが、日中に通過する時は駅の様子に注意していました。
駅の様子がどんどん変わっていくため、とても気になっていたのです。現在では知名度が低い石打駅ですが実は、鉄道の歴史からすると非常に重要な駅。
上越線は1931年(昭和6年)全通。それまでの信越本線(1893年(明治26年)直江津まで全通)および磐越西線(1914年(大正3年)全通)に続く、太平洋側と日本海側を結ぶ第三の大動脈として全線開通。
ただし上越(「上州」および「越後」の意)国境には険しい山々が。上越線は難関の県境を、当時としては長大な清水トンネル(清水隧道。9,702m。現在は上越線上りトンネルとして使用)で抜けています。100年近く前ですから、一般的には蒸気機関車が主力。
されど蒸気では排出する煙で乗務員が窒息するため、この区間は当時最先端の直流電気機関車で牽引しています。少し逸れますが、運転本数が多い都市部はその後直流電化。ただし東北や北陸、そして九州などは全体として効率の良い交流電力で電化。
ただし上越線のこの区間が直流だったため、新潟県内のほとんどの地域は例外的に直流電化されることに。
本題に戻ります。東京、高崎方面からだと、水上駅まで蒸気機関車で牽引し、同駅で電気機関車に付け替えます。当然、新潟県側も同様の拠点が必要。
それがこの石打駅だったのです。つまり鉄道の要衝。その後、上越新幹線そして北陸新幹線開業により、地位が徐々に低下。(なお後者に伴い、特急「はくたか」および夜行寝台特急「北陸」、急行「能登」が廃止に)
現在は無人駅です。前振りが異常に長くなりました。日曜日はごく普通の時間に自宅を出て、ひとまず信越本線で長岡へ移動。時刻表には記されていませんが乗車してきた電車は折り返し、水上行きになります。
1枚目の写真は石打到着後、ホームから駅舎裏側(見えているのは2階)を見ているところ。駅舎は立派ですし、ホームも長大。ただし良く見ると、駅舎に近い1番線のレールと架線は撤去されています。つまりまったく使用されていません。
階段を降り、1、2番線の下をくぐって駅舎正面に出て撮影したのが2枚目。
1階左側に薄暗く、しかしかなり広いスペースが。列車運行上の拠点だったので駅舎がある程度大きいのは理解できるとしても、これだけでは広さを説明できません。
駅舎内に入り、この部分を撮影したのが3枚目の写真。ここは首都圏の大きな並みの、とても大きな改札口だったのです。たぶん左側3ヶ所は乗車専用。駅員が寒さを凌ぐためのボックスが二つ用意されています。右側3ヶ所は下車用。
ちなみに現在は閉鎖され、駅舎中央の細い改札口を出入りするように改められています。つまり青海駅同様、非常に多くの乗客が出入りしていたのです。お察しの通り、これは関東方面から訪れる多数のスキー客──当時、スノーボードはなかった──に対応するためのもの。
50年くらい前はスキーセットを電車に持ち込み、それをフックで(当時の)網棚に吊していたのです。改札口の左端で見つけたのが、4枚目の看板。当駅始発、上野行特急列車の看板です。これはたぶん、この場所を先頭にして特急の自由席を利用するために並ぶ乗客の目印。
つまり雪の中、行列を収めるためにはこのスペースが必要。そう直なところ、今ではセンセイ自身が正確に思い出すことが難しく、そして若い方にとってはイメージすることすら困難な昔話です。
冒頭に記したように当時高校生だったセンセイは(なぜか)しばしば、冬季体育のスキー授業の一環として、あるいはグループでこの石打駅を訪れていました。当然、主目的は列車乗車ではなく、スキー授業。
と、なると、当然...。明日へ続きます。(今回は、キッパリ)
■4月18日(金) ここがセンセイの「ひみつ基地」 ──隣接するAV準備室の一角をお借りしました──
もう1日だけ、前任校での初回講義のお話を。
前任校は文字通り、金沢工大移籍前に所属していた大学。しかもセンセイは1991年の大学設立時の一員です。つまり「初期メン」。事務職員には当時のメンバーがまだ少数残っています──もちろん、今や幹部職員──が、教員は皆無。
そもそも初代学長を含めて、かなりの先生が鬼籍に。次はセンセイの番...はともかく、退職後も集中講義として科目を開講してきたこともあり、ハード・ソフトともにいろいろな意味で大学の事情に通じています。担当科目についても内容は、センセイ本来の専門分野。
何しろ、学部学生時代に世界初の歴史的発見をしている。(実話)しかも去年(こちらおよびこちら)、教材をほぼ全面的に改訂しています。だからこれまで通りの集中講義なら、ほぼ何の問題もないのです。でも通年での開講となると通勤手段以外にも別な問題が。
教材(こちらやこちらなど)および貴重かつ高価な図書の保管をどうするか。通常、これらは数回の講義を通して使用されます。
実は金沢工大も、退職後は同じ勤務形態。ただし前任校と違って嵩張(かさば)る教材や図書を使うことはないし配布資料等の保管についても、講師別のロッカーが用意されています。
前任校も、集中講義なら影響は比較的軽微。自動車に教材や図書を積み込み、それを非常勤講師室のロッカーに入れます。ロッカーは共用ですが、集中講義を実施する先生は数人なので事実上、問題はない。
でも通常の講義となると、そうもいきません。それでも自動車通勤なら講義のたびに必要なものを運搬することも可能。されどお伝えしたように今後は、昨日のように電車での移動をメインにするつもり。
つまり、何とかする必要が。他の非常勤講師とのバランスなど、いろいろ考えた末、最も妥当と考えられる提案をしたところ、すんなりとOK。まぁ、勝手知ったる前任校ですからねぇ...。
写真は、その提案内容に関係する部屋。右側が肝心要、講義を実施するAV教室。現役時代、センセイはここで講義していたのです。さすがに開学後約1/3世紀がが経過しているので、機器はすべて更新されています。ポイントは左隣の小さな部屋。
これは「AV準備室」。学会発表などもそうでしたが、かつては有線のリモコンを使って、隣の部屋からガラス越しに資料を提示していました。このAV準備室も、それを踏まえて設計されています。機器や視聴覚教材類の保管場所も兼ねています。
保管物の中には、とても大きな日本および世界地図も。ただしその後、プレゼンテーション方法および視聴覚教材の使い方は一変。現在準備室に置かれているのは、開学時に用意──センセイも多数発注した──した教材に加えて、その後購入した機器類そしてネットワーク機器など。
学生はもちろんのこと、教員がこの準備室に出入りする機会はほぼ皆無。AV準備室には、前任校を退職した2002年春以降、23年ぶりに入室しました。お察しの通り、その一角に教材や図書を置かせていただくことにさせていただいたのです。だって事実上、誰も使わないので。
個人的には、「ひみつ基地」。もちろん本来の用途外に使用することはありませんので、誤解なきよう。
講義内容の関係で教材類は来週、自動車で搬入します。
■4月17日(木) 「良さ」は、確かに存在する ──桜が舞う中で、前任校での講義が始まりました──
ちなみに、ダメな点も相変わらず──良い点以上に(?)──しっかりと続いていましたが。
今日、前任校での講義が始まりました。大人の事情により短期間のブランクがあったものの、基本的には30年以上継続している科目。ただし例外を除いて、ここ20年ほど夏期(および昨年度のみ冬期も)集中講義として実施。
金沢工大側の縛りもほぼなくなったし、何より高齢者に集中講義は辛いので、今年度から通常の講義に変更していただきました。講義を持っている人は実感していらっしゃると思いますが、半年あるいは通年の講義は初回で出来不出来が決まります。ポイントは、受講生のハートをどれだけ掴むことができるか。しばしば「掴(つか)み」と表現されることも。
だから担当者には、精神的な敷居が高い。しかも初回は実施/受講側ともに、どうしても完璧に準備できない部分があり、トラブルも発生しがち。また今回は配布資料を印刷する必要があります(原版の作成は依頼済)。加えてセンセイの場合は、片道110kmもの長距離通勤。
移動方法も問題になります。センセイは一昨日、昨日と長距離運転(往復480km)をしていますし、新潟市内の「新新バイパス」は猛烈に混雑。というわけで今回は安全確実に到着することを優先して、電車で移動することに。
ところが便利だった朝の特急「しらゆき」が、今春のダイヤ改正で廃止。新幹線の乗り継ぎも絶望的なので、全区間を各駅停車で走破せざるを得ません。
当然、朝早くに出発する必要が。5時過ぎ(!!)に起床して、6時半過ぎの各駅停車に乗車。倖い、途中の長岡駅で乗り換えると、その後は乗り換えなしで大学最寄り駅まで行くことができます。
学バス運行の関係で今回は、写真の新発田駅まで乗車。新発田駅に降り立ったのはたぶん、十数年ぶり(ただし列車では時々通過していた)。前任校時代は学生募集や入試業務を担当していたので、忙しい時は週に4日くらい駅前のホテルに私費で投宿。
道路の付け替えが行われるなど、駅前の状況は大きく変わっています。学バス(マイクロバス)に乗車して、市中心部をゆっくりと通過。駅近辺にはまだ「ももクロ」のデコレーションや旗が一部残っていました。
コンサートが中止になった日曜日はともかく、土曜日は凄いことになっていたんだろうなぁ。ただし中心部を少し外れると、雰囲気は一変。残念ながら、これが地方都市の現実です。
20分ほど走って前任校に無事到着。桜が出迎えます。本当は今ごろが満開なのですが、ここ数日続いた強風で花弁が無理やり吹き飛ばされたという感じ。事務室に入り、関係者に簡潔にご挨拶。
例によって「せぇーんせぇーっ!!」──関係者ならこれだけで個人を特定できる──と、周囲がびっくりするよう声を上げる古参職員も。ただし今日は、講義準備が最優先。トラブルを乗り越えながら資料を印刷します。他の用を何とか済ませて講義開始時刻前に教室に戻ると、え"っ?!
少子高齢化の進行に伴い、多くの大学が入学者の確保に苦労しています。残念ながら前任校もその例に漏れず、入学者は低下傾向。
それもあって、集中講義時代の受講生はそんなに多くなっかったのです。資源を無駄にしなくなかったので、資料は10部だけ印刷。ところが教室に入ると予想外に受講生が多く、配布資料はまったく不足しています。
仕方ないので資料は次回再配布することにして、印刷物がなくても問題ない内容を講義します。要するに、これから始まる講義の全体像。一方的にメッセージを発するつもりはないので、受講生の3/4くらいとやり取りしながら進行させます。
白状すると受講生の感覚や事情を探って、これからの講義の進め方を微調整する役目を兼ねています。のこ過程で感じたのがタイトルでお伝えした、前任校と受講生の「良さ」。後者については金沢工大とは対照的に、ゆっくりと成長する学生が多い。
本当のポイントはその速度ではなく、その人に相応(ふさわ)しい成長。そして長い目で見た時の「生きる力」の涵養(かんよう)。しかも野菜の促成栽培のように無理やり能力を伸ばすのではなく、センセイが発するメッセージを契機として、受講生それぞれが自身に内在させる見えない「力」(potential)を発現させ、比較的見えやすい「力」(ability)に変えていくか。
もちろん、今日も現場ではいろいろな問題が起きたのです。でも、まぁ、及第点はもらえそうかな。
ご帰宅は17時過ぎ。
つまり1コマの講義のために11時間ちょっと費やしたことになります。なお次回(来週)は、いろいろな教材や歴史的資料(稀覯(きこう)本を含む)を運搬する必要があるため、自動車で移動する予定。
こちらは順調ならば7時間程度なので、印刷等の業務がなければ通常の時刻に起床可能。ただし火曜および水曜の金沢工大移動と合わせると、その週は一般道を700km走行することになります。だから悩ましいところ。
でも移動手段にかかわらず、かわいい受講生のために思いっきり頑張っちゃうんだろうなぁ...。
センセイのことなので。
■4月16日(水) 夜の近江町市場、金沢カレー店の前に外国人客が... ──仏を作って、魂入れず──
センセイは無事に帰宅しています。もう1日だけ金沢のお話を。
センセイが担当する金沢工大大学院の講義は、去年まで水曜日の朝イチだったのです。何のことはなく、現役時代からこの時間だったから。ただし客員教授になってこの講義のためだけ「出勤」するとなると、ちょっと辛い部分が。
前日の火曜日は移動だけなので、とても楽なのです。金沢まで電車あるいは自動車で割と優雅に移動し、大学到着後は印刷等の教材準備。ただしその後はたいてい偉い人に掴まって夜まで...ということになるのですが。対照的に講義当日の水曜日は辛い。
当たり前ですが、遅刻は絶対に許されません。だからどうしても暗いうちから目覚めてしまい、睡眠不足気味に。にもかかわらず準備を整えて、7時前には荷物を持ってホテルのレストランの前に。何度かお伝えしたように、講義は体力勝負という面が。
だから急ぎつつも、しっかりと朝食をいただきます。私立学校系の年季が入ったホテルですが、朝食だけはごちそうなのです(正確には過去形だと今日、悟った)。朝食を済ませると大急ぎで移動して、7時23分発のバスに乗り...というパターン。講義棟のロックが解除される8時には、その入口前に。
ただし講義そのものは概ね順調だし、何より知的に楽しい。相手が大学院生──および進学予定の学部4年生──だということもあるのですが、そもそも講義は現在のセンセイに許された知的な仕事のすべて。体力を使う点を除けば、基本的には何の問題もありません。
なお、センセイの知性に問題がないという意味ではありませんので誤解なきよう。(実態は、真逆です)されどその後は、物理的に大変。講義で疲れたご老体に鞭打ち、帰路につきます。
お昼前に金沢を発つので、自宅到着は夕方。疲れが抜けません。特に自動車の場合は神経を使うため血圧がかなり上昇。そこで今年は負担をできるだけ分散すべく、講義を火曜の午後後半に移動していただきました。
お伝えしたように昨日は割と苦労して金沢へ移動。されど、やはり通い慣れた道。途中、元はコンビニで、閉店後は建設会社の事務所として使用されていた建物が解体されて更地になっていました。大学の近くでは「ECO CAR MARKET金沢工大前店」が入っていた建物も。
帰宅後に調べたところ、後者は近くに移転したようです。
その他にもあちこちに変化が。半年ちょっとでこんなに変わるんだ...というのが実感が。大学に到着し、最初の事務手続きを済ませる前後から、あちこちから「せぇーんせぇーぃっ!!」という黄色い声。
大急ぎであちこちに挨拶を済ませて、講義の準備に取り組みます。頑張って開始時刻30分前くらいに、すべての準備を終えました。講義そのものは学生諸君に助けられて、大きな問題なし。授業を終えるとホテルへ向かうだけなのですが、今年はすでに夕方。
しかも昨日は元同僚といろいろ話していたこともあり、ちょっと遅い時間に。バス停に向かうと、次の便まで1時間(!!)近くあります。人手不足で減便されていることも関係しているのでしょう。そこで、多方面から路線バスが集まる場所まで徒歩で移動することに。
今までは明るい時間帯だったので、金沢市中心部のホテルまでの5kmちょっとを歩くことも多かったのです。この場合、途中あるいは近江町市場のスーパーで夕食用の総菜を購入できたのですが、今年は不可。特に近江町市場のお店はほとんどが閉店してます。
でも市場内、写真のお店だけは違います。ここは2023年にオープンした「金沢カレー研究工房 近江町市場店」(ただしお店はここだけらしい)。ホテルとバス停との経路上なので、以前から気になっていたのです。でも昨晩はホントにびっくり。
店内は満席で、20人くらいの観光客が外で順番を待っていたのです。ただし「行列が...」ではありません。待っている方の95%が海外からの観光客なので、たぶん「列を作って並ぶ」という習慣がない。どうやらお店の前のウェイテイングリストにサインして待っていたく、という形式らしい。
でも、なぜ、このお店だけに?いろいろ考えてみたのですが、現時点では外国人の特性および習慣への理解不足と、それに起因する対応の遅れではないかと考えています。まず欧米人は、昼──ホワイトカラーは早朝から──はしっかり働く分、私的な時間はとても大切に。
メリハリがはっきりしています。昼と夜とを使い分けて、夜はしっかり「遊ぶ」。いろいろな意味で別な世界あるいは別な人生(?)を楽しみます。日本人の「飲み会」と重なる部分がないわけではないのですが、正直なところ相当異なります。
写真でお気づきかと思いますが、小さな子供まで夜の街に繰り出しています。この感覚、日本には対応するものがほぼ欠落してます。夜は家ないしは宿所に帰り、おとなしく...。他方、「大人」とされる人々はクローズドな飲み屋で...という発想。残念ながら、ちょっとうまく表現できないのですが。
この点は最近、かなり意識されるようになっています。知識としては「そうだろうなぁ...」と感じていたのですが、昨晩、それを目の前で突きつけられました。問題を見落としていたことは決して褒められたことではありませんが、肝心なのは、どうやって対応するか。
このお店のように、店頭の紙にサインしていただく方法も。でもそれなら、それこそスマートフォン用のアプリで管理すれば問題は概ね解決できるはず。外国からの観光客は言語などの問題があるため、ほぼ、スマートフォン上で得られる情報に基づいて行動しています。
でもこのお店の場合、少なくともサイトは日本語のみ。それならば、なぜこのお店を知ったのかという疑問が湧くのですが...。
それはともかく、マイナンバーカード問題で露見したように、ICTの活用──それ自体を批判しているわけではない──は、パソコンやスマートフォンを使いさえすれば良いという問題ではありません。いわば、「仏を作って魂を入れる/入れない」という問題。
内在する潜在的な魅力を評価され、ここまで期待されているのに皆が内向きになってしまい、トータルなシステムとしては期待にまったく応えることができていない。あ支援を得られない状況下で自分の順番を待つ人々の姿に、この国の極めて残念な現状を再確認してしまったセンセイなのでした。
ちなみに昨晩のアルコールを飲む前の「平均」血圧──「収縮期血圧」の3回移動平均の最低──は127mmHgと、基準を何とかクリア。長距離を運転し、かつ講義を終えてからの測定であることを考えると、評価すべき値と考えます。
講義初回で飲んだくれたためか、今朝の「平均」は、108mmHg。まぁ、これは「追い風参考記録」というところでしょうか。で、肝心要の今晩の「平均」は135mmHgと、基準の130mmHgをクリアできず。
でも、ま、こんなものかな。
P.S.
本題から少し外れる部分がありますが欧米人は一般的に、アルコールに強い傾向があるように思われます。国際会議などで夜遅くまで飲んでも欧米人は、翌朝ケロッとして、しっかりと発表しています。
センセイを含めた日本人はたいてい、二日酔いで気持ち悪そうな顔をしているのに。
■4月15日(火) 風雨の中、半年ぶりに見るりんごの木 ──金沢工大での初回講義を終えました──
というわけで、お約束の話題。
新年度そして新学期に入り、今週から金沢工大および前任校での講義が始まります。今日、火曜午後は金沢工大大学院工学研究科の初回講義が。これに合わせて今朝、自動車で金沢へ移動しました。
本当は電車──新幹線を好まないので、在来線のみ──で移動するつもりだったのです。なぜでしょう?
個人的な理由は簡単かつ明白。現在、初の交通安全運動期間中だから。
新潟県警はそれほどでもないのですが、富山県警は取り締まりをとんでもなく厳しくします。背景にはノルマがあるのかも...と考えるのですが、本当のところは不明。もちろん、個人的には安全運転。
ただし常に、かつ完全に順法しているかと問われれば、さすがに微妙。ほとんどの方はそうでしょうし、むしろ明白な根拠なしに「完全に安全運転だ」と言い張る人──高齢者に多い──の方が問題かも。それもあってか、昨晩はぐっすり眠れず、睡眠が浅い。センセイの朝の血圧の「平均」──「収縮期血圧」の3回移動平均の最低──は、通常110mmHg台。
でも今朝の初回はいきなり151mmHg。
「平均」も137mmHgと、基準をクリアできず。でも仕事なので、予定通りに移動を開始。出勤時間帯と重なる上越市内(旧直江津市)はかなり混雑しましたが、そこを抜ければ概ね順調。
雨のため燃費は低下気味でしたが、それでも富山市手前までは19.9km/L。ただしそれ以降は信号待ちや雨の影響が大きく、最終的な燃費は18.5km/Lとなりました。燃費面で不利になりやすい冬用スタッドレスタイヤを装着している影響もあるはず。
いつもより約10分遅れながらも、無事に金沢工大に到着しました。身分証明書の受け取りなど最低限の事務手続きを終えて向かったのは、もちろん「ニュートンのりんごの木」。半年ぶりの再会です。
強い風の中、しかも雨が降っているため、実際には非常に暗い状況下で撮影しています。現在は少しずつ葉を出しているところ。白状すると個人的に実感したのは、「親」がなくても、子はちゃんと育つなぁということ。もちろん実際には法人施設係の皆さんがちゃんと手入れしれくださるおかげなのです。
配布資料の印刷など、必要な仕事を大急ぎで済ませて講義に臨みます。もちろん、この歳になっても反省点は多い。
されど受講生に助けられて何とか無事に初回講義を終えることができたかな、という感じ。対象は大学院生および進学予定の学部4年生。いわば選抜クラスを相手に講義しているようなもの。
ただし優秀な分、こちらの落ち度や弱点はバレバレ。こらから半年続く講義、さて、どうなる?
なお本件、学部卒業後に就職する学生の能力が劣るという意味ではありません。就職/進学のどちらを選択するかは、家庭の事情など本当に多様な要因が関係するため、個々の学生の能力とはほぼ無関係。
決して、誤解なきよう。
■4月14日(月) 始まっている、と思う ──小路を通り抜けようとした時に感じた、猛烈な違和感──
予定を変更してお伝えします。
昨日からの雨は今朝まで続きました。午前中は明日に迫った金沢工大での講義準備。大学院の履修登録の関係──学部と異なる──で、受講者が確定していないことを除けば、最終調整までまで済ませました。
必要なファイルもアップロード済。そこでお昼前に徒歩で外出。風はまだ残っていますが、天気はご覧のように急速に回復してきました。目的の一つは、当地の桜の様子を確認すること。まず一昨日ご紹介した桜(1枚目)を訪れました。
写真背後の桜を含めて、本当に爆発しそうなくらいの咲き方です。
時間と経路の関係で、よしやぶ川の桜(2枚目)は訪れず。個体差はあるものの、全体としては五分咲きから満開くらい。最後にしようと思って、地域で最も早い羽森(はもり)神社へ。
桜(一昨日撮影した拡大写真(別ウィンドウ、1280×960)は、満開を過ぎたところ。風があるので時々花弁が舞っているのですが、枚数が少ないので「桜吹雪」とはいきません。それならば、と、撮影場所を変更することに。
砂丘の頂上にあるここから下ったところに、先日ご紹介した桜の樹があるのです。神社を出て線路脇の道を歩き、写真の場所へ。手前の道路を渡り、写真右側の小路を抜ければ公園とテニスコートに出る...のですが、何か変。
猛烈な違和感を覚えます。一瞥(いちべつ)して、空き家正面のシャッター部分が変形しており、正常に収納できないこといは気づいたのです。でも違和感が伝えるメッセージはそれだけに留まらない。
そこで、立ち位置を少し変えて撮影したのが写真。お気づきかと思いますが、写真の建物後方部分(=奥)が比較的健全なのに対して、少なくとも正面のシャッター部は全体的に右側に傾いています。良く見ると、右端のシャッター部を支えている鉄柱も大きく変形。
鉄柱が細いため、建物の傾きで発生した大きな圧縮力に耐えられなくなったのです。残念ながら問題は深刻。写真を良く見るとわかります──特に建物の左側で顕著──が、変形はシャッター部分だけではなく建物の正面全体に及んでいます。普通に考えれば、非常に危険な状態に陥り始めている。
さて、どうしたものか...。なお、この変形が当地を直撃した新潟県中越沖地震によるものなのか、能登半島地震によるものなのか、あるいは積年の雪害その他によるものなのかは不明です。
ただし個人的には、そもそも不適切な設計が変形要因の一つだと考えています。
■4月13日(日) 久しぶりに皮膚感覚で覚える高揚感 ──市内の白山神社で春祭りが催されました──
ただしセンセイが高揚したのではなく、参加者の高揚感を間近で感じたという意味。
今日は譲り受けた企画乗車券を使って、長年気になっていた県内某所を電車で訪れました。本当はその様子をお伝えするつもりだったのですが今週の予定も関係するため、後日改めてご紹介させていただきたく。
予定を変更してお伝えするのは、帰路に出くわした春のお祭りの様子です。ご存じのように今日は、東日本から西日本にかけての広い地域で荒れた天気に。新潟県内では全県的に雨が降っただけでなく、下越地方(県北部)では強風が吹き荒れたため、列車の運転が見合わせになるほど。
以前お伝えした「ももクロ春の一大事2025 in 新発田(しばた)市」も残念ながら、今日2日目の公演は中止に。
中越地方(県中部)の当地ではそれほどでもなかった──自分さえ良ければ...という意味ではない──ため予定通りに行動したのですが帰路、電車下車後については考慮する必要が。
雨はそれほどでもないのですが、風が問題。曇り時々雨との予報だったので、風にあまり強くない折り畳み傘しか持っていません。風向きなどを考えた結果、最寄り駅一つ手前の駅で下車。
ここからなら追い風になるし、途中のスーパーで晩酌のツマミを購入することができます。乱調気味の風に時々傘をひっくり返されながらも、何とか無事にスーパーに接近...と思ったら、風の音に混じって太鼓の音(?)が聞こえるような。
もしかすると...と思って、近くの白山神社に立ち寄ってみました。太鼓の音(ね)は止んでいたのですが、その代わりに聞こえてきたのは揃いの法被(はっぴ)を着た子供たちのはしゃぐ声。係の人にご挨拶して境内に入ります。
写真左側の神楽(かぐら)殿から太鼓を運び出しています。どうやら春祭りが終わり、後片づけに入ったところらしい。参加者はそれほど多いわけではないのです。神社内の様子はわかりませんが、ざっと20〜30名程度かというところ。センセイが圧倒されたのは、老若男女(ろうにゃくなんにょ)を問わず関係者が皆、高揚していること。
一番わかりやすいのは子供たち。拙宅近くの「羽森(はもり)神社」と違って屋台は出ていなかったのですが、子供たちは男女を問わず、火薬で音が鳴る同じオモチャのピストルを手にしてお互いに打ち合いをしています。批判しているわけではないのです。
60年前のセンセイも、ほとんど同じことをしていたのですから。もちろん、さすがにオトナはもう少しクール。されどその背後には春祭りの、さらには本格的な春がやってきたことへの歓びと期待感が確実に存在しています。改めて周囲を確認すると、おぉ、写真右側のように照明が数基。
レンタルでしょうが、気合いの入れ方が違う。飛び込みの迷惑な観光客だったかもしれませんが、皆様からエネルギーを分けていただきました。お礼を述べるだけでなく、この「お返し」は、皆様に直接ではなく、違った方に異なる形で。
約束です。