2025年4月26日更新(2025年5月4日ページ移動)

──2025年4月第4週のニュース──

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4月26日(土) さすがは国土交通省 ──「サンレパス ルート8」を訪れる機会が減少するかも... ──

 今日から、ゴールデンウィーク。

 いつもなら、センセイは実家での次期当主(予定)としての所用や、広義の農作業に従事。大局的には今年も変わりないのですが、連休中も前任校での講義があります。さらに、後日お伝えすると思いますが急遽、個人的な会合も。
 こうなると曜日まわりの関係で、金沢工大の講義が2週連続でお休みになるのがありがたい。

 今回、今後の行事の関係で何回かご紹介した企画乗車券を複数枚購入しました。つまりしばしば列車に乗って外出することになります。今日はその初日。企画乗車券は2日間有効。本来の使用日は明日なのです。
 でも、できれば今日もどこかへ行きたい。

 他方、明日以降の予定を考えると体力を温存する必要があります。そこで今日は、糸魚川(いといがわ)市内まで単純に往復してサンレパス ルート8」で鶏の唐揚げ定食」を頂くことに。同店を訪れるのは今年1月以来のはず。
 金沢工大大学院の講義が始まったため、2週連続でお店の前を通過しているのです。

 でもその後の予定が入っていたりして、ちょっとご縁が遠ざかっています。いつものJR信越本線の電車に乗車。混雑しているかなと心配したのですが、乗客は普段より少し多い程度。車窓の外に広がる日本海は、凪(なぎ)
 直江津駅で旧北陸本線に乗り換えます。

 有間川駅こちらこちら(2枚目の写真))を発った1両編成のET122型気動車はトンネルに入ります。次の名立駅までのほぼ全区間を全長3,601mの「名立トンネル」で一気に抜けるのです。窓の外はほぼ真っ暗。
 でもこの闇の向こう、光が当たる側では昨年度後半に大きな動きが。

 写真は月曜日に金沢へ移動中、国道8号線の舗装補修工事のために停止している際に南西方向を撮影したもの。ご注目いただきたいのは写真中央やや左側。拡大写真(別ウィンドウ、1280×960))
 ここは昨年元日に発生した能登半島地震で大規模な土砂崩れが発生した場所。

 崩れた大量の土砂が国道8号線まで流出したため、国道は通行止めに。でもそこは国土交通省。わずか1ヶ月弱で何とか通行可能に。
 約3ヶ月後、センセイも現場を通過しています。

 ただし昨年度前半、センセイが講義で金沢と往復している間、基本的にはそのままだったのです。でも右の写真を見るとわかりますが、崩落部分はコンクリートで覆われています。
 国土地理院地図によると、崖の頂上部の標高は約70m。

 国道8号線はというと、高さ約7m。写真左側、左から中央奥に向かって伸びる道路のようなものは旧北陸本線跡。現在は「久比岐(くびき)自転車歩行者道」として使用されています。
 海岸線を走っていた旧北陸本線は風光明媚
(めいび)だったのだそうです。

 センセイも小学校入学前に乗車しています。他方、当地ではこの現場のように、土砂崩れが多発。そのため旧北陸本線は昭和30年代にかなりの部分が山側へ移設。
 「モグラ駅」として知られる筒石駅を内包する「頸城隧道」や今回の「名立トンネル」は、その際に建設されたもの。

 工法などを見てもかなり手間と費用が掛かっている工事だということがわかります。一般人には準備期間の様子がわからないのは当然としても、わずか半年で工事を終えるとは。やはりさすが、予算潤沢な国土交通省。
 浦本駅で下車。

 サンレパス ルート8」まで歩きます。以前「ワープ」に利用した路線バスとは出会いませんでした。廃止されたのかと思ったら、ダイヤが変更になったとのこと。ご縁が切れた...か。
 約20分歩き、10:40ころ「
サンレパス ルート8」到着。

 センセイはこの日、最初のお客さんだったらしい。でもさすがに人気店、続々と来客を迎えて、テーブルはほぼ一杯に。11時までのスタッフは1人だけ──ただしベテラン女性──なので、やはり大変そう。
 客への対応に手間を取られるので、調理作業は遅れ気味。

 つまりお客さんの側は料理を待つことに。センセイには最初に届けられたのですが冗談抜きで、お客さんの熱い視線を感じました。初めての経験だ。
 もちろん美味く頂いたのです。

 されど同時に、残念ながら密かに感じていたことを再確認することに。「サンレパス ルート8」は昨年、提供する商品内容を一部変更。
 おそらく、経費高騰がその背景にあるものと推測されます。

 主菜は以前のままなのですが、副菜が徐々にコストカットの対象に。

 それはまぁ理解納得できるのですが、個人的には別な問題点が。調理を担当される方にもよるのですが、少しずつ味が濃くなり気味。つまり塩分が多い。もともと「おまかせ定食」の副菜は塩分が多かったのです。
 それが
「鶏の唐揚げ定食」に切り替えた理由の一つ。

 ところが久しぶりに唐揚げを頂くと、塩分を感じます。コストを考えると当然、味付済の輸入品を揚げているはず。だからセンセイの味覚の方が塩分に対してより厳しくなっているのかもしれないのですが...。
 ただしいずれにせよ、これまでのように「諸手を挙げて...」というわけにはいかない。

 ややめげながら浦本駅へ戻ったセンセイを迎えてくれたのが、2枚目の写真。

 地元の方が丹精込めて育ててくれたであろうチューリップです拡大写真(別ウィンドウ、1280×960))。もしかすると残念ながら、センセイが今後「サンレパス ルート8」を訪れる頻度は減少するかもしれません。
 
ただしそれは当地、そして糸魚川市とのご縁が...という意味ではありません。

 明日は企画乗車券を使って、新潟市へ移動します。



4月25日(金) これがその「バスの行列」 ──風が吹けば桶屋が儲かり、センセイは母親の送迎に──

 予定を変更して、昨日の続きを。

 今日は1時間ほど早起き。お伝えしたように、母親を整形外科医院まで送り届けるためです。両親は高齢なのでいくつかの病院に定期的に掛かっています。一部についてはセンセイがコンピュータで予約。
 ただし通院についてはこれまで、路線バスその他を利用して自分たちで移動していたのです。

 センセイがすべて送迎してもいいのですが長い目で見た場合、外出の機会を奪うのは好ましくないと考えたました。また彼らのプライドも考慮する必要もあります。ところが人口減少に加えて、コロナ禍がダメ押しとなり数年前、路線バスが廃止に。
 それ故、センセイが早めに退職したという次第。

 それでも内科医院などは路線バスと自治体が運営するコミュニティバスを乗り継ぐことで何とか、自分たちだけで移動していたのです。
 されど母親の整形外科だけは朝が早く、移動方法がありません。

 というわけで実家へ移動して母親を乗せ、市街地にある病院へ向かいます。写真はその途中で撮影した国道8号線の様子。数kmにわたる渋滞が発生しています。(右奥に地域のシンボル「米(よね)山」が見える)
 乗用車やトラックとともに、大型の観光バスが。

 これが昨日ご紹介した柏崎刈羽原子力発電所へ向かう通勤用のバス。これはまだ短い方で、日によってはバスが蟻の行列のように延々と連なることも。
 これらのバス運行を担うのは、市内の2社。

 ただし下請会社の中には自社でバスを運行している会社も。朝の出勤時間帯になると道路沿いのあちこちで、バスの到着を待つ東電および関連会社の社員が列を作っています。
 バス前面上部、乗降口付近には大きな数字が掲げられていますが、たぶんこれは目的地を識別するためのもの。

 前振りが異常に長くなりましたが、やっと本題。

 このながい行列あるいは渋滞と、母親の通院のためのセンセイの送迎は深く関係しているのです。運行会社2車中1社はバス専業。ただしもう1社の本業はタクシーで、朝晩の東電の通勤および一般の観光バス運行も兼ねるという営業形態。
 つまり朝晩、同社の運転手はバス運行にかかりっきり。

 当然、その時間帯はタクシー運行に関する需給関係が著しく崩れます。以前はそうでもなかったのですが、最近は人手不足が深刻化しているようで、一般利用客が朝晩にタクシーを予約することは事実上不可能に。
 というわけで回り廻って、センセイは母親の送り迎え。

 ま、いいんですけど。

 まるで「風が吹けば桶屋が...」状態ですが、これが当地の日常なのです。



4月24日(木) 実に見事だ... ──美しい木々や花々とともに、学生諸君がゆっくりと成長しています──

 木曜日は前任校での講義。

 今週は資料や教具を運搬する必要がある──今日の講義から使用開始──ため、自動車でご出勤。量が多いのであらかじめ、金沢から戻ってから車に積み込んでおきました。要するに今日は、運転するだけ。
 問題がなければ、8時頃に出発しても間に合うはずなのす。

 でも先週、配布資料が不足したため改めて全員分の資料を作り直す必要が。不足は許されないので今回のみ、職員の方に印刷をお願いしてあります。ただし一部については原稿を持ち込み、自分で印刷する予定。
 また特別な場合を除き、今後は自分で印刷することにしています。

 そもそも事務職員には本来の業務があります。決して「教員方のために」働いているわけではありません。ところが困ったことに印刷機やコピー機は更新されており、センセイはその使用方法を知りません。
 というわけで前言を一部翻
(ひるがえ)すような格好になるのですが職員の方に指導を仰ぎ、使い方を覚える必要があります。

 その他にも細々とした用があるため早起き──それでも先週より1時間ほど遅い──して、自宅を発ちます。ところが国道に出た途端、動かない。本当に全然動かない。通勤ラッシュと言えばそれまで。
 ただし当地ならではの事情が。

 センセイが進む先には世界最大の東京電力柏崎刈羽原子力発電所(現在は全基運転停止中)が。一般の職員は東電が用意する大型バスに分乗しての通勤。そのバスが延々と長い列を作るのです。
 ある程度覚悟はしていました。

 実は明日もそうなのですが母親の通院の関係で、市内の大型バスを総動員した長い列を逆方向から見ているので。

 止むを得ず、地元民しか知らないルートに変更して渋滞区間を迂回します。距離で約4km、所要時間は15分余計に。それでも予定時刻までに無事故で出勤することが最優先。片道110kmの走行。
 しかも全区間一般道なので、やはり大変。

 前任校時代、よく通っていたなぁ...。

 新潟市内に入ると、新新バイパスの反対方向は事故で大渋滞が発生していましたが、こちらは交通障害もなく、ほぼ想定時刻に大学へ無事到着。鍵をお借りして教材類を「ひみつ基地」へ運び入れます。
 事務職員の手を煩
(わずら)わせながら、教材の印刷も完了。

 講義開始時刻20分前までには準備をほぼ終えました。やれやれと思って後者の外へ出た時に驚かされたのが右の写真。八重桜だろうと思います。拡大写真(別ウィンドウ、1280×960))
 ただしセンセイは植物に関するセンスがないので、もしかすると間違えているかも。

 美しさに魅了されると同時に、驚かされたのは1本の樹に見事に「咲き分け」が起きていること。ただし講義開始時刻が迫っていたので、ひとまず教室へ。
 ここで、別な意味でびっくり。 

 先週より受講生が増えていたのです(.....オイオイ)。余裕を見て資料を用意していたのですが、不足する可能性すらあったのです。ただし就職活動で欠席する学生も。(連絡を頂いている)
 それもあって、ぎりぎりで資料不足を回避。

 集中講義時代と違うことばかりで戸惑いますが、それでも講義が始まってしまえばこちらのもの。今日もミスが発生──原因は加齢に伴う記憶欠如──しましたが、来週リカバリーすれば何とかなるでしょう。
 同じような内容を最近お伝えしたような気がしますが...。

 お昼が近づくと、受講生の集中力が何となく低下してきます。お昼前の講義はどの大学もそうでしょうが、終了時刻が肝心。1分1秒を争う事態になりかねないのです。
 先週、学生諸君の動きを見ていて悟りました。

 というわけで大学には内緒ですが、少し早めに終了。学生諸君は一目散に食堂棟へ。居残った数名の学生と話をしながら、後片づけをします。
 車に荷物を積み込み、改めて咲き分けの八重桜
(?)へ。

 2枚目はそのクローズアップ。中古の「」望遠レンズで撮影しています。拡大写真(別ウィンドウ、1280×960))

 全体的には薄いピンク色が主体ですが、中には中央のように真紅(しんく)の花も。写真ではちょっとくすんでいるように感じられるはずですが、これは“.jpeg”フォーマットの限界によるもの。
 実際はドキドキさせるほど、はるかに鮮やかです。

 しかも良く見ると、割と濃いピンクの花(たとえば写真左上)も。つまりこの樹は、1本で3色もの咲き分けが発生しているのです。

 1枚目の写真に戻ると、左側に大きな樅(もみ)の樹──たぶん──が。これは元同僚の教授(残念ながら数年前に逝去)が、退職の際に植樹されたもの。ちなみに彼女はICUの先輩。しかもご子息とは知り合いです。
 前任校キャンパスではかように、木々や草花がしっかりと生長しています。

 おっと、もちろん学生諸君も。どちらかというと金沢工大が「野菜の促成栽培」型なのとは対照的に、前任校はゆっくりと手間暇かけて。ただし客観的には放置プレイという面があることは否めない。
 誤解されると困るのですがセンセイは、いずれも否定しているわけではないのです。

 出自もタイプも、そして何より学校法人設立の理念が違う。されど同時に「だからそのままで良い」ということにもならない。取り入れるかどうかは別にして、他者の「良い」点は可能な限り客観的に評価すべき。
 その上でどうすべきかは、次のステップでの判断。

 残念ながら両大学とも、お互い、まさにこの部分が甘い。トホホ。

 ちなみに今日の第2回講義冒頭で、ある種の(大学の)自己紹介を兼ねて、金沢工大と前任校が32年前に共同で制作した──前任校側はセンセイが仕切った──10分弱のテレビ番組を視聴していただきました。
 ご存じのように、その約10年後にセンセイは金沢工大へ移籍しますが、制作時はそのようなことを知る由もなし。

 受講生はというと、ポカンとした表情。

 そりゃ、そうでしょう。完全な不意打ちですから。

 講義は淡々と、しかし(密かに熱く)続きます。



4月23日(水) 西村センセイ、満開の八重桜や色鮮やかなチューリップに見守られつつ県境を越える

 まるで金沢工大大学院で最終講義を行ったかのようなタイトル。

 もちろん決してそのようなことはなく、少なくとも講義はまだ12回続きますので誤解なきよう。なぜセンセイがそう感じたかというと、次回の講義は曜日まわりの関係で5月中旬。その次は「昭和の日」。
 その翌週が「こどもの日」振替休日になるためです。

 その頃には沿道の雰囲気も一変しているんだろうなぁ。

 さすがにこれだけ間が空くと、お互い、今まで勉強してきたことを忘れてしまいそう(特に危ないのがセンセイ自身)。でも、こればかりは致し方ない。ちなみに学生諸君には「連休明けまでには...」と課題への取り組みを指示しています。
 え"っ?

 もちろんセンセイ自身には課題を課していません。

 「自分に甘く、他人には厳しい」が人間の性(さが)。ちなみにこれは、明日の前任校での講義のオチ(予定)。それはともかく、金沢工大大学院での2回目の講義を終えました。されど一昨日お伝えしたように、ここまでけっこう大変だったのです。
 もちろん
(元)サラリーマンですから、文句は言わず──言ったとしても、何も改善されない──に印刷その他に励みましたが。

 お伝えしたように反省点は多いものの、講義は無事終了。ただし相当消耗していたようで、ホテルに入ってもなかなか寝付けません。それなのに、今朝は5時起き。
 タイヤ交換というイレギュラーな予定はあるものの、基本的には帰宅するだけにもかかわらず。

 二度寝できなかったので早めに朝食を頂き、路線バスに学生諸君と乗って金沢工大へ。荷物の入れ替えなどだけして、帰路に就(つ)きます。
 ところが予定より早く行動を開始したこともあって、金沢市中心部へ向かう通勤客の大渋滞に巻き込まれました。

 さらに所望した状態で渋滞を抜け、石川─富山県境を登ります。もちろん走行車両は少ないのですが、それ以上に驚かされるのが沿道の木々の美しさ。
 遅咲きの桜に、今が盛りの八重桜。

 坂を下って富山県にはいると、今度はまるでクレヨンで描いたかのような、色鮮やかなチューリップがお出迎え。おっとこちらも鮮やかな菜の花を忘れるわけにはいきません。
 花の美しさに、ややもすると荒
(すさ)みがちな心を窘(たしな)められるとともに、発想の転換を促されます。

 もちろん問題なくご帰宅。

 いろいろ考えたのですが、やはり今のうちに...と思ってご紹介するのが写真。右後方に、遅咲きの桜が満開になっているので。今週日曜日に「中華蕎麦 たか橋」脇の駐車場で撮影しました。拡大写真(別ウィンドウ、1280×960))
 ただし同店のお客ではなく、おそらく契約車両。

 もちろんBMW。センセイの愛車だった3シリーズE46)セダンから、トランクルームを無理やり切り取った──実際は小さなトランクが残っている──かのような末弟(まってい)“ti”を洗練させた、初代1シリーズ。
 世代的には3シリーズ“E90
(写真右側)に相当。

 なぜご紹介したかというと、「もしかすると...」というセンセイの期待通り、この車がMT車だったからです。全体の状況からして横浜ナンバーのこの車、ドライブが大好きな方のもののように思われます。
 いわばセンセイの同族。

 ただしBMWは、次のモデルまでは日本向け車両にMT車を供給したものの、それ以降はすべて廃止(価格帯の異なる上級の特別車両は別)。買い替えのタイミングもあり、個人的にはほぼ最後のモデルを購入できましたが。
 もはや古き良き時代の話になってしまったんだろうなぁ。

 ちなみに客観的には、BMWの1シリーズはフォルクスワーゲンの「ゴルフ」にほぼ相当。個人的にはVWの方がポイントをしっかり絞っていると思います。続く世代はともかく、“E46 ti”や、この1シリーズはコンセプトが少し曖昧。
 他方、やはりBMWならではの魅力も。

 だからこそ、ずっと乗り続けていらっしゃるのでしょう。(再び)え"っ?

 もはや桜と全然関係ないじゃないかって?

 御意(ぎょい)



4月22日(火) 残念ながら、今年は今日だけ ──「ニュートンのりんごの木」に花が咲きました──

 今日はタイトル通り、そして見たままのお話。

 金沢工大大学院工学研究科の講義を実施するため、金沢へ移動しました。片道240km。しかも全区間一般道での走行──センセイは高速道路と新幹線を好まない──なのでそれなりに大変でしたが、結果的には大きな問題なく走行。
 まぁ、2015年の北陸新幹線開業後、ほぼ毎週通っていた道ですし。

 今回は帰路、お世話になっている自動車販売店でタイヤを夏用に交換していただくことにしています。そのため、今回は計約120kgのタイヤを搭載。後部座席に大人2名を乗車させているようなものです。
 実際、
(車体後部が下がるので)車体が少し上向きに。

 燃費は下がるだろうなーと覚悟していたのです。

 「それなら往路、お店でタイヤを降ろせば?」とお考えになるかもしれません。その通り。されど往路にお店の前を通過するのは開店時刻前。お店の方に余計な負担をさせるわけにはいきません。
 で、結果はというと、全区間比較的順調に走行できた
──平均速度は49.0km/h──こともあってか、往路の燃費は19.5km/L。

 燃費は予想より、1.0km/L程度良い。

 どうやら走行時の重量(正確には「質量」)よりも、雨天など走行時の路面状況の影響の方が大きいらしい。それはともかく、無事に金沢到着。昨日お伝えしたような事情で、今日は印刷物が多数。
 手間と時間はかかりますが、勝手知ったる
(現在は)「他人の家」。

 問題ななく作業を終えます。そのままの勢いで、講義を終えます。もちろん反省点は多い。でもそれは、次回以降の講義の中でより良い方向に反映させるしかありません。
 荷物をまとめ、事務室脇の非常勤講師室へ。

 おぉ、そこで作業していらっしゃるのは元同僚。挨拶を交わし近況を報告し合った後、「いやぁ、こちらは(ホテルに)帰り、飲んで寝るだけですよ」。
 実際、その通り。

 駐車場に止めた愛車に戻り、必要なものを詰め直して、ホテルへ移動開始。歩き始めた時、今日は「ニュートンのりんごの木」をちゃんと見ていないことに気づきました。
 先週見たばかりなので...と油断していたのです。

 ところが実際にはご覧のように、花が咲き始めていました拡大写真(別ウィンドウ、1280×960))。こんなに早かったっけ。それはともかく、「...可憐だ」。(「ルパンIII世」に登場する石川五ェ門の口調で)
 もちろん明日も目にすることはできるのです。

 でもセンセイが金沢にいる午前中は雨。カレンダーをご覧になるとわかりますが来週、再来週の火曜は祝日なので、講義がありません。つまりセンセイは金沢に存在しない。だから本当に今日だけ。
 「」はいなくなっても、しっかり生き延びてね。

 内在する、その生命力で。



4月21日(月) さすがにこれは、不意打ち ──蔦で覆われた建物で再認識させられる地域の衰退──

 明日から3日間連続で講義と、それに伴う移動。

 先週もお伝えしましたが、講義は最初が肝心。これで出来不出来が決まるので。他方、別な観点からすると初回講義は準備が大変。前任校では受講生が見込みを大幅にをオーバーして、困ったことになったほど。
 この件について事務方に確かめたところ何と、連休明け
(!!)まで確定しないとのこと。

 20年から30年くらい前、下手をするとそれ以前のセンセイが学部学生だった頃のよう。ただし批判しているわけではありませんので、誤解なきよう。これが古き良き人文社会系大学の感覚。
 金沢工大は対照的。

 原則として講義開始時には受講生が決定しています。ただしどうしても登録はバタバタするので正確には「講義開始日の朝までには確定」。講義開始日の講義、特に朝イチは混乱しがちです。
 これとは別に、センセイが担当する大学院には特殊事情が。

 講義開始から1週間ほどは指導教員による履修指導期間で修正が可能。実際、今回も履修期間中に「申し訳ありませんが...」と履修取消を詫びる丁寧な連絡が。事情があるのでしょう。何の問題もないし、そもそもこの件で科目担当者に目るを送信する必要はないのに...。
 きちんと気配りができる優秀な学生なんでしょうねぇ。

 受講生が確定するのは講義2週目から。センセイが担当する科目では固定メンバーによるグループ討議を実施するため、毎年、初回を休講にして、1週間遅れで講義開始。(ただし講義回数は変わらない)
 たまたま今年は曜日まわりの関係で、第2週初日の第1回講義日の朝に受講生が確定。

 金沢への移動中に担当者から「受講者数が確定しました」というメールが。それでも前任校と違い、受講者の概数はわかっており、配布資料が不足するようなことはありませんでしたが。
 両校とも、講義終了後の残務処理は大変。

 金沢工大の場合、確定したデータを用いてグループを編成するだけでなく、複数の情報を作成して受講生を“eAPRIN”というe-ラーニング教材に登録する必要が。
 そもそもかなりの手間なのですが、一部に履修中/修了済の受講生も。

 履修履歴を調査して未履修者を新規登録するのですが、中には受講したことを忘れている学生が(実話)。その場合、サーバーがエラーを返してくるので、ひたすらデータ修正を繰り返す羽目に。
 受講生が多いため大変だったのですが頑張って、昨夕までに何とか登録。

 教材準備と細かい事務作業は残っていますが、ここまで来ればゴールは見えてきたも同然。というわけで朝から諸事に取り組んでから、お昼前に徒歩で外出。
 このところ天気が悪かったし、そもそも講義があったので、郵便局などの用を済ませるべく久しぶりに旧市街地へ。

 精神的に割と余裕があるからか、いろいろなことに気づきます。まず先週お伝えした前面が傾き始めた家屋動きが。(拡大写真(別ウィンドウ、1280×960))
 シャッターが撤去され、建物内に立ち入ることができないようになっています。

 そりゃ、そうでしょう。危険な状態に陥りつつありましたからねぇ。センセイとしては、周囲を立ち入り禁止にする必要があると思う。
 近日中には、何らかの対策工事が始まると思料
(しりょう)する...え"っ?!

 郵便局に向かって歩いていた時、右側から人の声(1枚目の写真左側)が聞こえたのです。何げなく振り向くと、その奥に、で覆われた大きな建物が。壁面上部には穴も。拡大写真(別ウィンドウ、1280×960))
 今までまったく気づきませんでした。

 驚いて建物の反対側に回り撮影したのが右の写真。件(くだん)の建物は左奥ですが実は、中央の黄色い建物と繋がっており、全体としては非常に大きな建物です。拡大写真(別ウィンドウ、1280×960))
 ここは「荒浜屋」という豆腐製造店だったのです。

 ちなみに「荒浜」というのは旧市街地北の地名。東京電力柏崎刈羽原子力発電所の南隣です。シャッター左側に、縦書きでお店の名前が大きく書かれていたのですが、塗りつぶされています。
 帰宅後に調べてみたところどうやら、一昨年11月に閉店したらしい。

 ただし蔦がその後急速に繁茂(はんも)したり、建物の傷みが進行するはずはない。結局、いろいろなことが不明なまま。

 されど傾き始めたお宅と「荒浜屋」跡が、衰退が進むこの地域の実情(の一部)を示していることは否めない事実です。



4月20日(日) 公の銅像は見守る ──西村センセイ、半世紀ぶりに上越線石打駅に降り立つ(2)──

 昨日の続き。今回は駅前編。

 お伝えしたような事情で石打駅が鉄道の要衝になったことは理解できたとしても、それだけだったら一般の乗客や地域住民にはさほど大きな影響を与えないはず。鉄道関係の施設が建つだけなので。
 ところがこれからご紹介するように石打駅はかつて、とても多くの方が利用したのです。

 その理由は、昨日お伝えした1960年代以降のスキーブーム。以下、今回は一般論ではなく、センセイの個人的な経験を通してのご紹介を試みます。1枚目の写真は、駅前(昨日の2枚目の写真右側)から東側を見たところ。拡大写真(別ウィンドウ、1280×960))
 中央奥に見えるゲレンデは「舞子リゾート」。

 ここはかつて、東京ドーム系の会社が「石打後楽園スキー場」として1959年に営業開始。センセイが高校生だった時(1970年代半ば)は毎冬、全員参加のスキー授業がここで実施されていました。
 記憶に間違い
──かなりアヤシイ──がなければ、2泊3日だったと思う。

 集合場所の高校からスキー場までどうやって移動するかというと、全員がスキー(所有していない人は現地でレンタル)を担ぎ、電車を乗り継いでこの石打駅へ。当駅から先は大型観光バスに分乗してスキー場へ。
 今ならゲレンデへバスで直行するのでしょうが当時は、どこも鉄道と現地のバスを併用するのが普通。

 1枚目の写真、やや左奥に大きなビルが見えます。奥の茶色っぽいビルが舞子リゾート直営の「舞子高原ホテル」。手前のグレーの建物はリゾートマンションです。
 ただし50年前はこのようなホテルは存在していなかったはず。

 全生徒(+引率、指導の教師)がゲレンデ近くの和風スキー宿──ほぼ民宿──に宿泊しました。もちろん個室はなく、8畳くらいの部屋に布団を敷き詰めて就寝。
 スキーそっちのけで、毎晩遊んだことを覚えています。
(不純だ)

 ただし食事や入浴の記憶が見事に欠落。お昼の記憶もないのですが、おそらくスキー場内のロッジで全員が同じカレーライスか何かを頂いたのでしょう。
 石打駅へ戻ります。

 当時は本当に多くの方が石打駅で下車して、近くにあるいくつかのスキー場へ向かいました。だから駅前には何台もの大型バスが待機。右の写真は、その現場の様子。拡大写真(別ウィンドウ、1280×960))
 写真の駅1階
(昨日の写真2枚目)から、左側(南側)を見ています。

 ここに控えていたバスがスキー場の間をピストン輸送していたことを覚えています。当然、駅前には観光客向けの商店街が形成されます。
 ホームはここより高い場所にあるため、ホームから駅舎越しにお店の2階が見えます。
(昨日の写真1枚目奥)

 商店の1階が土産物店で、2階は食堂あるいは喫茶というパターンが多い。されどご覧のように、現在はすべて閉店。写真奥、一部のお店は解体撤去されて更地になっています。
 文字通り、お客さんが「消えた」ため。

 1982年の上越新幹線(大宮─新潟間)開業(全線開通は1985年)に伴い、スキー客輸送のためのハブ機能は隣の越後湯沢駅へ移ります。しかも移動方法は徐々に、自家用車や高速バスでのゲレンデ直行へ。
 追い打ちをかけるように、少し遅れてスキーブームは下火になります。

 あれだけ多くの人が行き交った石打駅前ですが今回、現地滞在中に自動車を10台くらい見かけたものの、歩行者には一度も出会いませんでした。
 そもそも電車から降りたのはセンセイと男性1名。乗車したのはセンセイだけだし。

 まるで40年くらい前にタイムスリップしたかのような感覚に陥ります。でも頭を切り換えると、あちこちに「昭和」がそのまま残されています。
 例えば3枚目の写真は、2枚目の写真中央付近で撮影したもの。

 目に飛び込んでくるのは大村昆さんの「オロナミンCドリンク」と、「オロナインおばさん」こと浪花千栄子さんによる「オロナイン軟膏」の琺瑯(ほうろう/ホーロー)看板。
 若い方はたぶん、ご覧になっても何も感じないんだろなぁ...。
(批判しているわけではないので、誤解なきよう)

 良く見ると上部には「上野─石打」と記された準急/急行「ゆけむり」の行先札が。1950〜1970年代を中心に運行されたスキー列車で、一部はその後、特急「谷川」に格上げ。
 当時はかように、上野と当駅を結ぶ優等列車が多数
──その一部は、割と最近まで──運行されていたのです。

 その左側には、おぉ、大小のドラえもん石像が。良く見ると顔のデザインがかなり違います。その脇で控えるのピカチュウ。さらに左にはなぜか、リフトのゴンドラが。(今日の2枚目の写真左側)
 こうなるともう、合理的な説明が困難なシュールレアリスムの世界。

 2枚目の写真に戻ると左端の、店頭にゴンドラがあるお店は「川岳(せんがく)軒」。駅弁のお店です。個人的にはここで駅弁を買ったことはないはず。
 ただし隣の越後湯沢駅ビル内では何度か購入。

 北陸新幹線開業つまり特急「はくたか」廃止後はご無沙汰していますが、情報によると同駅内での営業は継続しているようです。
 写真の建物が本社なので、もしかするとここで駅弁を製造しているのかも。

 今日の2枚目の写真に戻ります。

 写真右奥、右側の上越線を背にするような格好で銅像が建っています。今回の主目的は駅前商店街のその後と、この岡村貢(みつぎ)公像。拡大写真(別ウィンドウ、1280×960))
 当地の大庄屋の長男として生まれ、上越線建設に尽力したため「上越線の父」と呼ばれているそうです。

 恥ずかしながら西村センセイ、最近になってこの銅像の存在を知りました。

 高校生のころは表面的あるいは近視眼的なことにばかり関心、理解があり、その奥に存在するものをたくさん見落としていたんでしょうねぇ。
 もちろん、今だってそんなに変わっていないのかもしれませんが。

 Googleマップにはこの銅像について「信越鉄道[正しくは上越線]の父の銅像は、数十年にわたり、石打駅が繁華街として発展し、その後無人駅に転落する過程を目撃しました。ため息が出ずにはいられません」(原文は英語)とコメントが。
 銅像の左側に解説の碑があるのですが、日本語だけ。

 つまりこのコメントは、あらかじめかなり調査したか、あるいはこの碑文を呼んで良く理解した上でのもの。言語の壁を考えれば、相当高い知的レベルの方が書き込んでいると考えざるを得ません。
 決してこの方と競争しているわけではないのですが、我が身を振り返ると、自らの不明を恥じ入るのみ。

 ここまで来た甲斐がありました。

 なお40〜50年くらい前、石打駅前にはスキー宿が90軒(!!)ほどあったのだそうです。ただし現在は1軒だけ。スキー場近辺もほぼ同じ状況と考えられます。当然でしょう。

 もはや昭和は遠くなりにけり、というわけです。

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